ずっと見たいと思ってた「八日目の蝉」をやっと鑑賞。
前に足利学校に行った際、裏手にある鑁阿寺のそばにある写真館が「八日目の蝉」のロケに使われてたと知り、見たかったのだ。
もう見て涙涙。
子を思う母の心が胸に突き刺さる。
確かに悪いことをしたのかもしれないけど、でもそれを誰が責められようか、そんなことを思う。
警察に捕まった直後の喜和子の言葉にもう号泣。
「この子はまだご飯を食べてません」
たとえ産んでいなくても、その言葉は完全に母の言葉だった。
何よりご飯の心配をしてあげる。
それが母親というものだ。
そんな台詞を聞いて、私も母のことを思い出した。
私や妹がまだ子どもだった頃、母はおかずの取り合いに烈火のごとく怒ったものだ。
「食べ物のことでケンカするんじゃない」と。
貧しい農家で育った母は、幼い頃兄弟とおかずの取り合いをし、満足に食べられないことがしばしばあったという。
その時のことがとても卑しく思え、自分の子どもにはそんな思いをさせるまい、と誓ったそうだ。
だから、取った取られたと騒ぐ私ら姉妹にいつも本気で怒っていた。
足りないと判れば、母は自分の分まで子どもたちにくれた。
そんなことまで映画で思い出し・・・また涙だったのだ。
昨日は母の月命日。
たった一人で母の墓参りに行った。
墓の周りの雑草を取り、花を活け線香を上げる。
墓参には似つかわしくないバラの花。でもゴージャスが好きだった母には合ってるかな。
思い出せばいつもそこにいるけど、もう話が出来ないのが未だに悲しい。
家族を亡くす、という意味。
その喪失感も手伝って、被災地により思いを馳せてる自分がいるのかもしれない。
供えた花は凛として、それでいて儚げに風にたゆたう・・・・・・。
しばらくの間、眺めていた自分だった。
にほんブログ村