年に3回訪れている宮城。
それでもまだ全部の被災地を訪ねられず、今回初めて女川町へ向かうことに。
マリンパル女川
震災前は漁港のすぐ前にあり、建物は津波で流されなかったが、後に取り壊された。
殻つき牡蠣が何と100円で、買いたかったが帰りを考えると無謀なためあきらめる。
万石浦沿いの風景は穏やかで、道路脇の家もいたって普通に見えた。
後で聞いたのだが、この辺りは津波被害がほとんど無かったそう。
その後少し山に入り、坂を下ったら何もない風景が眼前に飛び込んできた。
女川は津波の高さが最も高かったところで、被害も甚大。
引き波でコンクリート製の建物が土台から根こそぎ倒されるという、他地域でも類を見ない被害に遭った。
震災遺構として残されることが決定した交番。
土台から倒れ、あまりにも有名なった江島共済会館。
呆然と建物を見ていたら、後ろから声をかけられた。
この江島共済会館の向かい側にあった七十七銀行の遺族の方だ。
震災時、銀行の行員はすぐ前にある高台には逃げず、この銀行の屋上に避難した。
約20mと言われた津波はビルを丸ごと飲み込み、行員は1名が漁船に助けられた以外8名が行方不明、4名が亡くなったとのこと。
声をかけてきた女性は、その亡くなった行員のお母様。
25歳で亡くなった息子さんの無念をお母様は語ってくださった。
すぐ前に高台があるのに、どうして銀行側はそこへの避難を指示しなかったのか・・・。
現在遺族の方は銀行を相手取り訴訟を起こしている。
こんな悲劇が無くなるように。
それは遺族の心からの叫びなのだ。
その遺族の方のお話によると、未だ女川では200名が行方不明ということだ。
なかなか進まない捜索に、不明の奥様を探すため潜水士の資格を取って自ら探そうというご主人もいらっしゃる、と聞いた。
そんな悲しみとは裏腹に、女川の津波浸水区は土地のかさ上げが開始する。
江島共済会館も10月には取り壊しが決定で、ここが無くなると訪ねる人もいなくなり忘れられてしまうのではないか、と遺族であるお母様は心配していた。
「この光景は、来年はもうないんですよ」
と悔しそうに仰る。
七十七銀行跡地に設えられた祭壇。
写真を撮ってもいいですか、と聞いたら「どうぞどうぞ」と言って頂き、写真に収め手を合わせる。
被災地の方々の中ではまだ震災の続きの現実だが、世の中の動きはもはや「震災後」。
このギャップを埋めるためにも、私たちはまだまだ心寄せて行かなければ、そんな気持ちを新たにした。
女川を後にし、次に向かうは石巻市。
国道398号線を走っていると、脇の線路で列車が並走してきた。
見ると、心躍るイラストが描いてあり、何とも愉快で癒される。
仙石線 マンガッタンライナー
大袈裟だが、神様からの贈り物のような気分。
地元の人々にも愛されてるんだろうなー、と思った。
石巻では、マンガッタンライナーを見たのもあり、石ノ森萬画館を訪ねてみる。
津波被害が甚大で、2年前に来た時はまだ再開してなかった萬画館。やっと中に入れたのだった。
入口エントランスにある石ノ森章太郎氏の手のモニュメント。
握手させていただいた。
被災直後、40人もの避難者を受け入れ、救助までの5日間を耐え忍んだ萬画館の方。
そんな経緯も知っていたので、感慨深く館内を見て回ったのだった。
その後は石巻復興マルシェへ。
前回来た時よりも規模が縮小されていた。
仮設の縛りもあるのかもしれないが、訪れる人も少なくなっているように感じる。
周辺では取り壊されてる建物も多い。
風化の波にさらされているのはここも同じなのか。
門脇地区へも行ってみた。
小学校は足場が組まれ、市民病院は取り壊された後。
草が伸び放題で、だだっ広い草原に来たかのようだ。
この場所の向かい側にはちょっとした休憩所もあったはずだが、それももう今は無し。
祭壇に手を合わせ、そっとそこを後にした。
今回、被災地を回って思ったことは、どこもターニングポイントを迎えている、ということ。
良きにつけ悪しきにつけ、転換期が来てるのだと思わざるを得ない。
次は名取市閖上、岩沼市レポです。