11日は名取川沿いにある温泉ホテルに宿泊し、翌12日は今まで行ったことが無かった国道6号以南へ。
ホテルは東北道と仙台南部道路の境にあり、前日の大雨で土砂崩れが起きていた。
夜を徹しての復旧作業の翌朝の光景。
名取川も濁流になってて恐ろしい状況になってた。
最初に向かったのは亘理町。
JR常磐線の浜吉田駅。
当時も津波被害にあっていたが、現在は復旧されている。
しかしここより南は相馬まで不通になっており、上り線に向かうホームへの階段は封鎖されていた。
電車が通らない線路は錆びついている。
その先は線路も架線も無くなっていた。
そこから県道38号線で山元町へ。
建物も何も撤去され、広大な平原と化している。
ここには常磐山元自動車学校があった。
私がこの自動車学校の悲劇を知ったのはニューヨークタイムズのこの写真だ。
教習所に通っていた娘さんの変わり果てた姿を見つけたご両親の痛ましい様子。
犠牲になったのは教習生、職員27名。
皆若い人ばかり、さぞ無念だったろう。
私はただ手を合わせるしかなかった。
そこからまた38号線をひた走り、中浜小学校へ。
こちらは未だ生々しい津波の痕跡が残されている。
幸いここでの犠牲者はいなかったと聞く。
残された人は屋上に逃げ、一命を取り留めた。
学校から海は目と鼻の先。
この海面が持ち上がり、校舎屋上近くまで上がったのかと思うと本当にゾッとする思いだ。
そこからは6号線に出て福島県へ。
途中新地駅にも寄ろうと思ったが、工事中のため入れなかった。
迂回するために入った路地では、こんなアパートもあった。未だ手つかずの家々。その隣では普通に暮らしてる家もあり、そのギャップに複雑な思いがした。
休憩のため寄った道の駅そうま。
ここの震災展示館では、先ほどの中浜小学校の備品が置いてある。
ここを訪れた時はぜひ見てほしい、と思う。
この後更に6号を南下し、津波浸水粋を何度も通り抜け浪江町へ。
津波に襲われたままの家々が目に飛び込んでくる。
同時に除染の黒い袋が点々と。
双葉町に入るときは、帰宅困難区域の表示が出て、二輪車通行禁止、歩行禁止、車両は通行のみ、となっていた。
なのでそこからは窓を開けず、外気になっていないか確認して車を進めた。
街はあるけど、全く機能していない。
路地には全てバリケードが張られ、マスク装備の警備員が見張っている。
初めて見る異様な光景に、これが同じ日本なのかと疑うばかり。
重要と思えるところには警官まで配置され、その管理下を通る恐怖心も出てきた。
写真には撮れなかったが、あの有名な「原子力 明るい未来のエネルギー」の看板も見た。
その矛盾が何より今の日本を表してる気がしてならない。
ゾッとした、【福島第一原子力発電所】の表示板。
この向こうにあるのかと目を凝らすと、ほんの少し建物らしきものが見えた。
大熊町の市街地に入ると、悉く家の前にバリケードが。
本当に異様な光景。
人そのものを拒絶してる空間だ。
富岡町に入る頃はこんなトラックや除染作業の人、黒い袋の山、とにかく夥しいほどの袋の山があった。
ここを通る前、前日一緒に食事をした去田さんから伺ったのは、「本当にショックを受ける光景ですよ」だった。
テレビやニュース写真で見て知ってはいたが、実際に見ると本当に衝撃的で生々しい。
こんな光景が実際にあるのに、なぜ九州では川内原発が稼働になるんだろう。
誰も住めなくなった街は、日本人の大人なら必ず見ておいた方がいいと思う。
この重い重い事実は、皆で共有しなければいけない。
帰りがけ、パパと話した感想は、「未だ震災の渦中にある」ということ。
忘れてはいけない。
無かったことにしてはいけない。
最後、常磐道から北関東道に入った後、宇都宮で鬼怒川に差し掛かった。
遠くて分かりにくいが、川にかかる橋脚にいろいろ引っかかっている。
常総市の大水害は、私たちが出発する前夜のこと。
自分たちは災害列島に住んでいるんだと、改めて思ったのだった。
2日間の宮城福島の旅。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。