今日は水曜サークル。
今度の日曜にイベントがあるので、今日は最終の猛特訓だった。
間違えやすいところを何度も繰り返し練習し、弱気になってるメンバーを叱咤激励しながらガンガン進める。
ただ・・最後の方では私もやり過ぎてしまい、一番年配のリーダーがフラフラと倒れそうになってしまう。
慌ててそばへ行き、抱きかかえるように列から連れ出し座らせた。
考えてみれば、私の母と同じ歳なのだ。
何回も通しで踊らせるなど、無謀に等しい・・・・。
暫くして普通に動けるようにはなったが、まったく迂闊だったよなぁ・・・今度からは気をつけなくちゃ。
で、その後は母の病院で午後ずっと過ごし、夜家に帰った。
夜、未だに食い入るように観ているのは、公演のDVD。
もうあらゆる面で、自分の心を喚起してくれる。
思うのだ、やはり踊りには強烈なメッセージがないといけない、と。
振付家が込めた想いをダンサーが表現すること、二つの力が合致すればするほど観る者に響くモノがある。
今日は、振り付けた人の想いや切なさみたいなものがダンサーから感じ取れて、思わずハラハラと泣けてきてしまった。
ダンスは、紛れもなく自分の内にあるものを全てさらけ出す。
確かな基礎の上に成り立つ「遊び」の要素も、遊びの部分が多いほど、与える感銘も深い。
踊りを観て泣いてしまうのは、そこに自分を投影できるからだ。
本当に踊りが上手い人は、「自分」を出さずに相手に成り代わる。
観ている人の心までをも表現してしまうから、観てて泣いてしまうのだ。
そう思うと、先日見たYOSAKOIソーランのファイナルでの演舞は何だったんだろうと気になった。
素晴らしい笑顔で踊っているにも関わらず、響くモノがまったく感じられない。
その「陶酔した」表情・・・・。
「陶酔」・・・・・
何だか判った気がした。
自分に酔ってしまっては、見ている人を酔わせられない、と。
YOSAKOI系の踊りでは、往々にしてこの笑顔が多い。
観ている人に何を伝えたいか、その意識の差で斯くも変わってくるのかと愕然とするのだ。
踊りは自分をさらけ出す。
努々忘れてはいけないことなのだ。